レアとおぼしきサントラを勝手気ままに紹介していく『このサントラ、ちょっとレア。』あっという間に年末でして、自分のラッキーナンバーが並んだ2025年が去ってしまうことに少々寂しさを感じている志田一穂が今回もドカドカとお送りいたします。
さて今回は12月20日から代表作がドドドと4Kリバイバル公開されるレオス・カラックス監督作品のサントラを検証してみたいと思うのです。

しかも引用しているロック系の楽曲たち、もっと言えばデヴィッド・ボウイの楽曲ですね。こういうポイントを確認していくとその監督のロック癖(なにそれ)やそもそもの性格癖なんかが、なんとなく見えてくるのではないかと。まぁタランティーノだったら60sや70sのレアグルーヴ好きとか、ジャームッシュだったらアングラでオルタナ的なのが好きとか、そういう傾向が分かってくるのではということです。
まずはやはり1986年の『汚れた血』ですね。

本作で強烈なインパクトをぶちかますロックの引用曲がまさにデヴィッド・ボウイの「Modern Love」(アルバム『Let’s Dance』1983より)です。カラックスの作品は既に前作(にして劇場用映画デビュー作)『ボーイ・ミーツ・ガール』(1983)でその静謐でいて破壊的なシネフィルスタイルは確立されていて、愛と自由を求めて若きアレックス(ドニ・ラヴァン)がひたすらに葛藤と混乱と苦悩の日常を繰り広げるという、言葉だけだと尾崎豊かよと言われそうですが、そこはカラックス独自の映像美意識と個性的演出で、完全なる唯一無二の傑作となっていたわけです。

その続編とも言うべき本作『汚れた血』で、モノクロームだった主人公の心の風景が一気にヨーロピアン・カラーへと眩しく広がり、さらにそこにあのジュリエット・ビノシュというディーヴァまで登場して、一気に愛と青春の旅立ちにケリを付けようと全力疾走状態になっていったわけですね。

そんな浜田省吾なのかよと思わせる熱き血潮をドストレートに描いたワンシーンが、ボウイの「Modern Love」シークエンスなのです。引き続き主人公はアレックスという青年で(もちろんドニが再登板)、この歌にあわせて画面上の下手(左)から上手(右)へと爆走する動きにこの歌が突然流れ始めると。

映画の中に現れる音楽というものは物語がフィクションである以上に架空の付け足し的存在なんですね。精神論で言えば主人公(あるいは画面上にいるキャラクター)の脳内感情が楽曲化されたものが映像と単に同期して現れるという、非現実世界の映画的虚構なわけで、この「Modern Love」もまさにアレックスの脳内だけで爆音で鳴り響いているものにすぎないと言えるわけです。しかしこれがとても異質なコラボに見えるというか、フランス映画のシネフィル作品に80年代の大ヒットポップロックが突如引用されたことは、山田洋次監督の寅さんの中でいきなりBOØWYが流れるようなものではないかと、それぐらいの驚きが当時劇場で観ていてあったわけです。
しかしこれこそがレオスの確信犯的選曲でありシークエンスなんですね。どんなに映像をパッショナブルに彩ってカッコつけても、下手から上手へと逆走する姿からして反抗極まりないスタンスだとしても、主人公アレックスの心の中だけはピュアネスなままなのだと。

自由に自己を開放するときだけは、レアグルーヴやオルタナティヴなどの渋い曲たちではなく、まだ20代の自分(『汚れた血』当時、レオスは25,6歳だった)は、夜の街の中を走り抜けるならボウイはボウイでもBOØWYではなくてデヴィッド・ボウイなのだと。いや別にこっちのBOØWYでもいいんだけど、なんにしたってここにだけは、つまり脳内サウンドだけは偽りたくないぞと、そういう真っ直ぐな思いがイタいノリすらありながら伝わってきたわけです。
変な話し、ボウイの曲を使うなら名曲「Heroes」とか「Changes」とか「Starman」なんかが筆頭かと思われますが、たとえ大衆ディスコ音楽に囚われてセレブロッカーになっちまったと言われてしまった80年代時期のレッツダンス・ボウイであっても、リアルタイムで出会って感銘を受けたのがソコなら、絶対的ヒーローはレオスにとってレッツダンス・ボウイなんですよね。

アレックスという主人公はレオスの分身であり、そんな感銘を受けたロックに対して、ウソはつけないと、そんなメッセージすら伝わってくるのです。
そしてアレックスはさらに次作『ポンヌフの恋人』(1991)でもより拍車をかけて愛と自由に闘争心をむき出していきます。

この映画自体がレオスにとってのアレックス三部作完結編ということで気合い入りまくりな作品だったのか(資金不足で完成まで3年もかかってしまう)、だからこそというかなんというか、前2作のある意味フレッシュさというものは皆無で、ひたすらにないものねだりの大人になれないオトナたちのテイタラクなシーンが延々と続いていくという、あぁやっぱり青春時代に明確な出口なんてありゃしないのねと、正直がっかりさせられる展開が続くのです。

しかしやっぱりソレがイイ、と言わせてしまうのがレオスの映画だったりするわけでして。三部作とはよく言ったもので、これまでを観ていれば納得できる作品、それが『ポンヌフの恋人』と言えてしまうのです。当時劇場で観ていて、はっきり言って前半は「あ~あ」と呆れながら観ていました(ちゃんと渋谷シネマライズの初日初回で観ていたから気合充分だったので肩透かし食らいまくり)。でもですね、物語の中盤を過ぎたあたりで、またまたいきなりボウイの曲が鳴り響き、全身全霊でハッとさせられたわけです。

このときの感情、今でも鮮明に覚えています。その感情は一つではなく、たくさんありました。「え、待って、この曲、Time Will Crawlって最新アルバムからじゃん、なんで?」「え、待って、またボウイなの?イイカゲン成長してくれよアレックス!」「え、待って、ここで引用曲フィーチャー?これじゃ前作まんま踏襲じゃん!ワンパターンすぎる!あんまりじゃない?」
要するにめちゃくちゃ心の中は大混乱になってしまったのですね。この曲「Time Will Crawl」はボウイの80年代最後のアルバム「Never Let Me Down」(1987)からの楽曲で、残念ながらこのアルバム(と関連ライブツアー)は当時大酷評されたシロモノだったのです。

ボウイの80年代は前述したようにディスコ・ブームからの波及で「Let’s Dance」ムーブメントを巻き起こし一気に再びスターダムにのし上がったのはいいものの、そのあとのアルバム「Tonight」(1984)もかつての独自世界は封印してしまったおかげで凡庸なものと評され、ダメ押しであるかのように超ポップロック路線で登場したのが「Never Let Me Down」だったと。そこからレオスはまたまたピックアップしたもんだから、なんで?なんなの?となったわけです。
でも今は冷静に分析できるのですね。かく言う志田も80年代丸刈り中学生のときにボウイのレッツ・ダンスやモダン・ラブやブルージーンなんかを聴いてファンになっておりました。そのタイミングで出会ってしまった以上、ボウイとくれば自分もソコなのです。要は出会いのタイミングによって、そのアーティストのアピール・スタイルも当然時代時代で違うわけなので。だから、自分より上の世代はクイーンと共演した「Under Pressure」が一番だったり、さらにその上の先輩方はやれ「シン・ホワイト・デューク」だ、やれイーノとのベルリン時代だ、挙句はジギーとミック・ロンソン時代しか認めてないんで、みたいなオヤジたちもいるわけじゃないですか。
レオスは志田よりもちょっと上のパイセンなので、ほぼボウイ・ヒストリーで言えば同世代なんですよ。だから今回も、今ハマッているボウイは現状最新アルバムのコレなんで、とやっぱり誇示してしまうんですね。例えばシカゴはデヴィッド・フォスター以前派か以後派かだとか、佐野元春はヴィジターズ以前派か以後派なのかとか、まあそういうことです。出会いのタイミングでアーティストや歌に対して自分勝手に推してしまうのは当然のことなんですよね。

しかも、レオスはまたおんなじシーンをやってしまうと。確信犯的にボウイの曲で主人公たちがまたまた盛り上がって今度は躍りまくってしまうと。今回はそのシーンではバックに花火がガンガンあがって、大人になれないオトナたちのまま、逆にそのだらしなさをあおるように青春バンザイを演出していたりするわけです。もう自暴自棄の極致なんですね。なんというはちゃめちゃなシーンだと当時は感じましたが、今は、なんという悲しいシーンなのだと思います。しかしそれがこの作品『ポンヌフの恋人』が伝えたかった、青春という無垢さの永遠性なのでしょう。彼らはその時間軸を(Time Will)、耐えながら贖いながらただただ這いつくばって(Crawl)いくしかないと。なので、すべてをこのボウイとのコラボ・シーンに託したレオスの心痛さは計り知れないものではなかったかと、今では受け止められるのです。

実際ここまで引用曲一曲で影響力がある作品はなかなか無いのではと思ってしまうのです。それぐらいレオス作品、特にこのアレックス三部作で登場するボウイの曲は、とてもこれまで感じたことのない衝撃や、高揚感、違和感、動揺さなど、とにかくいろいろなことを考えさせられるシーンたちでありました。主人公たちの脳内音楽は監督自身の思いの代弁的存在でもありますし、こうして見ると映画音楽というものは感情をストレートに表す意志の通達係とも言えてきますね。皆さんも普段日常の中で、例えば家で用事をしているときとか、街に出て天気の良い午後に散歩をしているときとか、自然に頭の中で何かそのときの気分にあわせた歌を奏でているのではないでしょうか。だとしたらそれがあなた自身のサウンドトラックであり、それが映画に刻まれない限り、周りにいる人人、つまりは観客たちには聞こえない自分だけの音楽なのでしょうね。レオスはきっちり、それを映画に刻み込んだということだと思います。

というわけで今回はたった2曲の引用サウンドトラックだけでこんなに熱く語ってしまいました。そういえばデヴィッド・ボウイにおけるサントラ論というのも、そろそろかましていかねばならない時期でしょうかね。ではまた懲りずにカッキンで。
★志田の映画音楽番組、湘南ビーチFM「seaside theatre」、HPから世界中どこでも聴けますので是非聴いてみてください!湘南ビーチFM | Shonan BeachFM 78.9